常識のコイル

 導線を巻きつけたドーナツ状のコイルを、永久磁石の上に、一軸上に自由に回転するように設置する。
 すなわち「モーター(発動機)」、もしくは「ダイナモ(発電機)」の構造です。

 そこに、電流を流せば力が発生する。
 反対に、力を加えれば電流が発生する。
 両者は鏡に映したような、対の関係にあります。

 ダンケルクの敗走を「ダイナモ作戦」と銘打ってプロパガンダしたチャーチルの機転は、とっくに昔話かな?

 さて、そんな両義的な装置が文学の領域にもあります。
 「ミステリ」と「ホラー」という二つのジャンルです。

 どちらも共に、その物語叙述のうえで、ある「謎」を取り扱います。
 衆人には一見理解不能な、その「謎」を、探偵が理解しうるかたちで解きほぐすのが「ミステリ」。
 「謎」が割り切れないまま、堅固と思われていた日常の常識にふとした裂け目が入るのが「ホラー」。
 そう僕は考えています。

 常識を超える、すなわち「超常的」なる現象があったならば、
それを割り切れるようなかたちで片付けるか、さもなくば、その割り切れなさを強調するのか。
 それが両者の分かれ道。

 といった具合に類推してゆけば、ミステリかホラーか、どちらかを一方を二者択一しなければならないはずです。
 そんな常識の裏をかいて、さにあらず。ミステリと思ったらホラー。ホラーと思ったらミステリ。
 などという奇妙で、なおかつ愛すべき、例外的な実例が、ときとして存在するのです。

 ミステリかと思ったら割り切れない部分が残ったり。
 ホラーかと思ったら意外と人の心の深奥の曖昧さに至ったり。

 それは常識で割り切れるのか、割り切れないのか。
 そのよくわからないところにこそ、読者はいざなわれ、惑います。
 電動車における回生ブレーキのような思考停止状態。

 常識という名のコイルを、作家という永久磁石の上で、どちらに働かせるのか。
 そしてまたそれが、ときとして回生ブレーキのような思わぬ副産物を発生したりもする。

 そんなジャンル分けの難しい文学作品に出会うたび、僕はハッとさせられます。
 固まりかけていた常識の線引きに、揺さぶりがかけられ、そのとき僕はとっても愉快なのです。
 そんな、常識の地平線が曖昧になる体験を求めてしまうのが、ミステリかつホラー愛読者の心なのでしょう。


 那須正幹ズッコケ三人組シリーズへの讃歌、そして津原泰水、そんなひろしまのナラティブの女性描写の美しさについて。
 そんなあたりを本題としたかったのですが、この調子では本題に辿り着けそうにありません。
 本題はまた日を改めて。
 本題に関わる2冊の本を最後にご紹介して、今日はこのへんでおしまいとさせていただきます。

那須正幹『ズッコケ怪奇館幽霊の正体』
 今晩買って、一巻置く能わざる勢いで読了したジュブナイルズッコケ三人組シリーズ第48巻。同シリーズにはミステリ、ホラー系の秀作が多々あります。

蘆屋家の崩壊 (集英社文庫)

蘆屋家の崩壊 (集英社文庫)

津原泰水『蘆屋家の崩壊』
 麗しくそして曖昧な味わいの「どちらともつかない」怪奇短編集。常識の二段底が用意されていたり、物語のすり替えが巧みになされたり、ミステリなのかホラーなのか、回生ブレーキ的思考停止が味わえます。