ワイルドバンチ

 我らが時代遅れの無法者の行末に思い馳せる今日この頃。
 サム・ペキンパー監督「ワイルドバンチ」(1969) を、久しぶりにまた観る。

 なるほど、憎まれ役マパッチ将軍を演じたエミリオ・フェルナンデスはメキシコの映画監督だったのか。たしかに役者にはない、悪どく憎たらしい面構え。
 相棒のダッチを演じたE. ボーグナインといい、イケメンどもには到底真似できない、醜男俳優(これは断じて褒め言葉)の顔芸の味わいが実にとにかく身に沁みる。

 しかしまあ、この時代遅れの情け無用のギャング団の最期。つくづく他人事ではないと感情移入してしまう今日この頃。

 最後の決戦に向かう四人組の行進、マーチのリズムに乗せたメキシコ民謡を背景にした無言の長シーン。
 憎っくき将軍をあっさり蜂の巣にした後の一瞬の静寂と、お馴染みダッチの「ヒヒッ」という痙攣的な笑い声。
 阿鼻叫喚の集団自殺的な大殺戮。
 そして、大殺戮がすっかり片付いた後にようやく追いついた、追撃者デューク(R. ライアン)の脱力感。

 滅びの美学などというにはおこがましい、暴力の後のむなしさと後悔。
 「わらの犬」にも通じる、まどろっこしくも沸々と嵩ぶりゆく感情。自殺の代償行為としての暴力の爆発。そして後をひく幻滅感。

 ペキンパーの映画は、暴力そのものの描写よりも、暴力行為に伴うあと味の悪さにこそ、生々しい力がある。