何もないところから、テツガク

〈きみたちは、いままでずっとおとなたちから「よい子になりなさい」と言われ、「悪い子だね!」としかられてきたよね? でも、そのとき「よい子って何?」とか「なんで悪いの?」と聞くと、おとなたちはイヤがってその質問にまともに答えてくれなかったことと思う。まさに、そういうことを聞く子が「悪い子」なんだからね。 / なぜだろう? なぜなら、おとなたちはそれを知らないからであり、いや知らないほうがいいと思っているからであり、子どもたちもただ世間の人が使うように「よい、悪い」という言葉を使ってくれればそれでいい、そう考えているからだ。〉 (pp. 17-18)

〈どうも、ここには何か「恐ろしい」ものが潜んでいる、そんな感じがしないかなあ? そうなんだ。それを踏み分けていくと、広大な荒地が広がっていて、何もかもわからなくなる。何がよいか、何が悪いか、全くわからない世界って、とても恐ろしいよね?〉 (p. 19)


 以上、長くなりましたが、中島善道『さようなら、ドラえもん  子どものためのテツガク教室』(講談社)からの引用です。
 中学三年生の子どもたちとの講義と対話という形式を借りたささやかな書物です。
 それでも読者の年齢層を問わず、解けない疑問に恐れることなく向き合って育むこと。
 「テツガク」することへの入門書としておすすめの1冊です。

 この書物で提示されているのはカントの哲学に基づいた考え方です。
 ただし、その考えに共感できてもできなくてもいい。
 まずは、共感や違和感、ソボクなギモンを門前払いしないことから始める。
 そして、〈どこがどう「わかんない」か正確に言って〉みること。
 その上である意見に同意するか否かは、一哲学者であるカントの残した言説との、果てることのない対話のなかで各々が見出すことです。

〈それは、他人と議論していくうちに、自分の意見と他人の意見のどこが同じでどこが違うかを正確にたどる訓練をしていくうちに、しだいにわかってくる。だから、なにがなんでも他人を打ち負かそうとするのではなく、むしろ他人の力強い意見に負けて自分の意見の弱さがわかり、それによってもっと「ほんとうのこと」に近づいた感じがすればそれでいいんだ。一種のスポーツマン精神だね。〉 (p. 27)


 本当にウソのつけない問題は、いいかげんな解釈で片付けず、あせらずに、じっくりと育む。
 当面の利益を求めたほうがトク、という考え方に圧し殺されがちだった姿勢。
 愚直すぎると見過ごされがちだった考え方に、あらためてハッとさせられます。

 円高不況→内需拡大政策→バブル景気→バブル崩壊「日常」「家庭」の崩壊→ITバブル→9.11テロ→格差社会→ITバブル崩壊金融危機
 ここ20~30年の歴史をふり返ってみて、「確かなもの」の基盤が反転してきたことを思います。
 昨今の「より確かなもの」を求める風潮は、高等数学ブームを経て、哲学への希求へと至るでしょう。
 もっとも哲学的姿勢の対極である、現象学的姿勢も、旧弊を排して新規蒔き直しをした上で、見直されてしかるべきですが。

 願わくば、カタチだけの「哲学」ではなく、何もないところから自らの頭で考える「テツガク」の姿勢を。

さようなら、ドラえもん 子どものためのテツガク教室

さようなら、ドラえもん 子どものためのテツガク教室